神戸駅から元町駅へ

大学4回生にして新店舗立ち上げに!

神戸駅焼鳥屋でアルバイトをしていましたが、そこの2番手さんが引き抜かれ、元町にて新しい炭焼料理屋を任される事になり、私もそちらでお世話になることにしました!

料理のことを色々教えてくれていた人の店でしたので、今の基礎となることをこの店で学びました。

その時に出会った色々な飲食業の方にも、色々教えて頂きましたね!

そして、たくさんのお店にも連れて行って頂きました。

それまでは、前回にも書いたように神戸駅や新開地で飲んでいましたが(もちろんそちらにもよく行っていました)、三宮にもちょこちょこ行くことが増えましたね!

その中でも思い出深いお店が、夜中から開いて朝までやっている洋食屋さんでした。

たしか名前はバレンシアさんだったと思います(ちょっと20年以上前の記憶なのであってるか自信ないですが)。

夜中の3時くらいに訪れても満席で、大人達が

赤ワインを飲みながら洋食を食べていました!

今の三宮ではなかなか見られない景色ですね。

そのほかにも色々なお店に行かせて頂きましたが、書き出すとキリがないのでやめときますが、北野というエリアが夜でも元気だったという印象が残っています。

だんだん夜が早くなってきた神戸

街にも、飲食店にも活気が戻ってきて欲しいなと思う日々

そういえば先日、鹿児島、宮崎、福岡に行きました。

博多は言わずもがなですが、人口の少ない宮崎でも夜の繁華街が元気でしたね!

みんな、楽しそうにお酒をのんでました。

九州は人が元気だなという印象を受けましたね!

みなさん、元気で良いお酒を飲みましょう🍶

 

朝まで元気に飲み続けた日々vol2

懐の深い街

今思えば、神戸駅、新開地、福原という場所は

懐の深い街だったなと思う。

今でもたまに神戸駅界隈で呑むことはあるが、さすがに新開地や福原で呑むことはほぼ無い、ましてや朝までなんてとんでもない😅

20代の時は、屋台村から、新開地、福原などにも遠征して、よく朝まで呑んだ。

新開地といえば、昔は三宮よりも賑やかな歓楽街、福原といえば全国的にも有名な花街、老舗や朝までやっている飲食店も多かった。

火鍋のハトヤ、つぼ焼きの大谷、焼鳥のかねしょう、八重亭、グリル一平などなど、しかし私がおとずれる時間は真夜中から朝方にかけてなので、これらの店はすでに閉店しております。

ただ、おそろしくディープな店は朝方までやっているところもあり、色々な思い出がたくさんあります😅

ダイニングバーブルース、神戸っこラーメン、串カツまつうら、居酒屋いさみ、お好み焼きたみちゃん、まつうらの横のラーメン屋などなど

色々思い出はありますが。全て詳しく書くとすごく長くなるので、、少しばかり触れとく感じにしますね😂

ブルースは朝までやっていて、商売のお姉様もよくいらっしゃってました、食事の美味しいBAR、しめにほぼ100%冷稲庭うどんをたべてました!

神戸っこラーメンは、所謂神戸のラーメン、第一旭神戸ラーメンからのもっこす、神戸っ子ラーメンという感じでおわかりいただけるかなと笑

で、ここからのお店がなんせディープ🤣

居酒屋いさみの大将いっちゃんは、今でいうLGBTな方、めちゃくちゃ面白い人で、昼間とかに会うとただの普通のおっさん笑

お好み焼きたみちゃんは、朝方に店内から軍歌の大合唱が聞こえてくる。

そして、串カツまつうら!

ここには、本当によく通いました。

店主のおかん(年齢的にいうと私の歳の離れた姉くらいであるが)が、僕たち飲食業の晩御飯用に惣菜をいつも何種類も用意してくれてたんです。毎晩串カツなんか食べれんやろということで。

私達も、行く前に「今日おかず何あんの?」って電話して、あんま好きなおかずじゃない時とかは冗談で「ほな、やっぱり行くんやめとくわー」「しばくぞ!」なんて、やりとりをしながら笑

来ているお客も多種多様、屋台村のお客さんを、ぎゅーっとさらに凝縮したような感じでしたね😅

まぁ、カオスなところでした!

の、隣のラーメン屋もコメントは少し控えさせて頂きますが、なんでそうなるの?的なラーメン屋で今までの人生で一番衝撃をうけたラーメン屋でしたね😆

と、毎夜毎夜こんな生活をしていたので、同世代の20代とはまったく違う遊びをしてましたね!

でもやはり、たくさんの人達に愛され、育てられたなと今でも感謝しています!

ではまた次回

朝まで元気に飲み続けた日々vol1

みんな夜中から朝まで元気!

前回のブログでよく飲みました🍺

とお話しましたが、具体的にどういった飲み方をしていたかというと!

私の場合は神戸駅あたりから三宮駅くらいまで行動範囲にしていましたね!

とりあえずバイト先が神戸駅でしたので、終わって24時くらいに近所のBAR、そこが一応2時までなので、そこから少し移動して屋台村(複数のお店が入っている飲み屋の集合体みたいな場所、フードコートの飲み屋版みたいな感じですね!)へ!

色々なものが食べたり飲んだり出来るのですが、私はもっぱらお好み焼き屋に陣取ってましたね😋

そこに仕事の終わったBARのマスターやらが合流して、朝の5時くらいまで、飲んで、食べて、話して、泣いて、笑って、喧嘩して!

そこに行けば誰かいるみたいなお店を何軒か、若干20歳くらいの若造にあったことが、今思えば特別な事だったんだなーと思いますね☺️

また、色んな人に出会えて話が出来たことも財産ですね!

今でもずっとお付き合いがあり、お世話になっている方も、当然、連絡先もわからなくなってしまった人、亡くなってしまった人、年月の流れで人それぞれに色んな人生があるのだなーと思いました、、

出会った方もじつに色々な方がいましたね!

飲食の方はもちろん、会社勤め、自営業、会社社長、ヤクザ、オカマ、なにをしているのか謎な人、、、

でも、一緒にお酒を酌み交わせば、立場、性別、年齢関係なくバカ話して、笑い、泣き、怒り、実に人間味のあるカッコつけてない良き世界だったなと思います!

そういう価値観は今でもブレずに持ち続け、そして、これからも!

次回は他のエリアにのことにもふれていきますね!

バイト終わりにお酒

バイト終わりに体験大人の世界

高校生の時も夜中遊んだりはしていましたが、

お金もあまりないので、ファミレスにお世話になったり、コンビニの前だったり、公園だったりと、ただ集まって話をするという感じでしたね!

なにをそんなに毎晩毎晩話すことがあったのかと思いますが、楽しく貴重な時間でしたね🙂

そういえば、彼女とも毎晩毎晩1時間も2時間も電話してましたね笑(当時は家電、母親に電話代でブチギレされた。。😂)

そして、バイトに行き始め(週5から6)、大将やら2番手の先輩が、仕事終わりに「飲みに行くぞー」ってよく連れて行ってくれました!

当時はいくらでも食べれる年頃、もちろんしっかり賄いを頂いてから飲みに行きます。

賄いもたくさん食べました!

1番食べたのはやっぱり焼鳥丼かな!

あと、大将が長田出身ということもあり、油カスをキャベツと厚揚げと炊いたん、もよく食べましたね!

バイトにくるまで、油カスの存在すらしりませんでした(今はカスうどんとかでだいぶメジャーな食べ物になりましたが)

そして、そこからバーに行き、それまでに飲んだことのあるコンビニなどで売っていたカクテルバー(当時、永瀬正敏🤔がたしかCMしてたと思う)とは、まったく違うジントニックを飲んで、感動して、酔っ払って、まわりの大人に可愛がってもらい、なんだか大人の仲間入りをした感じで、毎日楽しかったですね😆

当時と今では、世の風潮も若い人達の考え方も、だいぶ変わってきてるとは思いますが、僕が今でも飲食業界に身を置いているのは、やはり楽しかったという純粋な想いを、他の人と共有したい、そういう場所を作りたいというのが、根底にあるのかなと😁

次回は、そのバーの後にどこで朝まで飲んでいたかを書こうかな!

ありがとうございました😊

飲食店の料理を経験した学生

前回までは、少し脱線して震災の時の記憶を書きましたが、話は再び、高校生から大学生へ。

なんとか、大学への進学も決まった、高校3年生の冬、引っ越し屋さんでアルバイトをしていたのですが、当時所属していた社会人リーグの焼き鳥屋オーナーに、バイトに来ないかと言われ大学生になるのと同時にバイトを始めました。

初めて焼鳥屋さんの焼鳥を食べる

僕の記憶の中では、本格的な焼鳥屋さんの焼鳥というものをそれまで食べた記憶はあまりなく(もしあったとしても、1、2回)、賄いとはいえ備長炭で焼いた焼鳥の味は、今に至る焼鳥好きになるための原点でありました。

当時はまだまだ地鶏や銘柄鶏やとこだわりをもって使っているお店も少なかったと思います、バイト先のお店も所謂ブロイラーを使っていました。

それでも、そこのお店は紀州備長炭を使い焼き上げていました。

赤提灯の焼鳥屋ではありましたが、連日満席の繁盛店で串打ちの量も半端なく、経験を積んでいくうちに、串打ちやら、少しだけ焼きもさせていただけるようになり、今、私の生業のスタート、原点となったお店です。

そこでは、2番手さんの方に料理のことや、色々なお店のことを教えてもらいました。

神戸は、震災後3年という時期にさしかかり、復興という形での特需景気で、夜の神戸駅から三宮はかなりの人出でした。

そこにのっかり私も色々な経験をさせて頂きました。

その内容はまた次回へと

中3で感じた食の大切さvol3

ガスも電気も水道も使えない、数日後ようやく

電気が通り、テレビをつけた。

愕然とした。。

高速道路の倒壊、三宮の崩壊、長田の火災、、

しかし、日本の助け合いの心から救援物資の到着は早くも被災地へ届き出していた。

毛布、日用品、食料等、都市部での大規模災害という前例のない中での対応、すごく感謝してます。

ただ、物資が届く場所は、メディアに取り上げられている被害の酷い地域に集中し、同じくインフラはストップしているが、建物などの損壊や死者が少ない地域には、あまり届いていない状況でした。

私の住んでいた地域ではなかなか食料の配給が追いついてない状況、しかし、祖母(父方)を助けに行った灘区では、食料が余っている地域もあった。

全てが、満遍なくということは難しいのでしょうが、こういった状況は、災害に関係なく今も世界中の至る所でみられる現状です。

経済的な貧富の格差は仕方のない部分ではあると思いますが、今、私の周り(私自身も含め)では、家庭、飲食店も含め、食料の廃棄というものにさほど抵抗なく行われていることは事実、そして、その廃棄される一部のものですら、口にできない方がいるのも事実。

震災からおよそ30年になろうとしている今、一度は当たり前にあるインフラや食料がないという経験をした私自身もう一度、当たり前が当たり前ではないということを、このブログを書きながら認識しました。

 

中3で感じた食の大切さvol2

「おばあちゃん、大丈夫?」と、聞きながら部屋に行くと、声は聞こえてきますが、和箪笥やらが倒れて姿が見えません。。

暗闇の中、目を凝らすと丁度、倒れた仏壇と和箪笥の間に無傷でいました。なんとか引っ張り出し家族全員の無事を確認。

仏壇が観音開きの扉で支えて、その上に和箪笥が倒れたので、おばあちゃんは一命をとりとめました。先に和箪笥が倒れてたら。。

御先祖様や、わたしの産まれる前に亡くなったお爺ちゃんが助けてくれたんですね。

そして、なんとか家の外に出時には、夜が明けて外は明るくなっていました。

そこからは、叔母が血を流しながら来たり、同級生の安否確認やらでいつのまにか時間が経っていました。

そしてお昼過ぎ、余震はかなり続いていましたが、家の様子を見に団地6階の自宅へ、見るも無惨な状況に唖然としながらも、とりあえず食べれそうなものを探します。

その頃になってようやく、昨日の夜から何も食べてなくお腹が空いていることに気づきました。

インスタントラーメンやら、お菓子、レトルト食品など、腐らないものをひとまず外に持ち出しましたが、お菓子以外は基本そのまま食べるものではありません。

「水も、ガスも、電気もなかったら、何も出来へんな。。」

「お腹減ったな」

生まれて初めて、普段、普通にあった当たり前の事や、普通に出来てたことが出来なくなってしまいました。

普段、何気なくお腹が空いたら、何気なく食べていたものが、突如として食べれなくなる。

まして、水のペットボトルを買うことがまだまだ一般的でない時代、水道をひねっても水が出ない。。

水分をとる、食事を摂るということが、当たり前であって、当たり前の事でないという事実に直面した中学3年生でした。